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自立した(!?)四年間

一.四年間の一人暮し 

 

 大学卒業を目の前にして、四年間の大学生活を振り返ると、一番初めに思い出すことがあります。それは高校三年の進路を決定するときのことです。「地元の秋田大学に行きたい学部があるのに、なんでわざわざ他県の大学に行くんだ」と教師や親に言われたことを覚えています。その頃、とても一人暮しに憧れていました。地元の秋田大学は家から充分に通える距離にあり、そのことがとてもつまらなく感じていました。今でも覚えていますが、その頃の僕は地元の秋田大学にはその後の生活にある程度の見通しを持っていましたが、他県の大学にはその後の見通しを持つことができませんでした。「どうやって、一人暮しをしていくんだろう」と不安な気持ちもありましたが、逆に未知の世界にワクワクしていました。すったもんだしたあげく、僕は親や教師の反対を押し切り、山形大学に進学しました。とても恥ずかしい話なのですが、これといって行きたい大学はなく、一人暮しができるのなら、どこでもいいやぁという気持ちでいました。なぜ山形大学に進学したかといえば、もちろん、大学入試センター試験の点数との相談もありましたが、小学校四年生のとき、山形で心理リハビリテーションの一週間のキャンプがあり、そこに参加したことがきっかけです。随分と昔の話なのですが、そこで知り合った人たちのことが頭の片隅にあり、また、山形に行ってみたいなぁという気持ちが僕を山形大学に駆りたてました 

 

 僕の一人暮しは大学生活とともに始まりました。しかし、いざ一人暮しをしてみると、かなりの期待を寄せていた僕の心は膨らんだ風船の空気が抜けていくように、ゆっくりと萎んでいきました。一人暮しをやってみて、日に日に実感したことは『自分のことは自分でやらなければいけないなぁ』ということです。『自分のことは自分でやる』ということは結構、しんどいことです。家族と一緒に生活しているときは自分の不便なところを家族に手伝ってもらいました。当たり前の話なのですが、一人暮しをすると、今まで家族が手伝っていた部分を他の誰かに補ってもらわなければなりません。最初はこのことに戸惑っていました。しばらくの間、試行錯誤の状態が続きました。この試行錯誤によって、僕はかなりたくましい男(?)に成長したような気がします。 

 

 【大学】というところは僕にとって、まさに天国のようなところです。キャンパスを見渡してみると、僕の不便なところを補ってくれそうな人は山のようにいます。初めは『頼む』ことに終始していましたが、慣れてくると、『頼んでいくことによって、多くの人たちと関わることができる』ことに気付き、今では『自分の不便なところを手伝ってくれるように、働きかけることによって生まれる人との触れ合いが自分の最大の楽しみ、または喜び』になっています。 

 

 一人暮しをしていて、いつも感じることは人の気持ちの複雑さです。僕は自分の不便なところを多くの人に頼んでいきます。これも当たり前の話ですが、人によって、対応が全く違います。快く受け入れてくれる人、無視する人、一見快く受け入れているように見えても義務感でやっている人など。僕はよく「爪を切って下さい」と頼みます。僕は別に断ってくれてもかまいません。でも、その断り方が重要なのではないかと思っています。頼んで、完全に無視されたときは心の底から、悲しくなります。「次の授業があるので」とか「バイトの時間なので、すみません」と一言、言ってくれたのなら、不愉快な気持ちになりません。また、爪を切ってくれたとしても、接し方で相手の気持ちが伝わってきます。ただ爪を切る人、爪を切りながらいろいろな疑問を投げかけてくる人、緊張しているのか、逆上せているのか、僕に惚れているのか分かりませんが、赤面して爪を切る人、楽しい会話を弾ませながら爪を切る人、人の爪を切りながらついでに自分の爪を切る厚かましい人など。人によって、様々です。僕が大切にしていることは僕の頼み事に対する相手の気持ちです。僕が頼んで、やってくれる人の気持ち(優しさ)が伝わってくれば、僕はとても幸せな気持ちになります。たとえ冷たい手でも、その手から温かさが伝わってきます。でも、相手の義務感の気持ちが伝わってくれば、何だか悪い気がしてなりません。 

 

 人への接し方も一人暮しをして、痛烈に考えました。同じ内容でも言い方によって、人の反応が変わってきます。効率良く手伝ってもらうためには、言い方を考えていかなければなりません。四年間の大学生活を振り返ると、そればっかりを考えていたような気がします。御陰様で言い方のレパートリーも増えました。人(男の子、女の子)によって、言い方を変えることも一人暮しを最大限楽しむためのコツです。 

 

 僕は料理で女の子を口説いていました。一人暮しを始めたとき、僕はご飯を炊くぐらいしかできませんでした。そこで、料理のレパートリーを増やすために、友達からいろいろな料理を教わりました。僕の得意な料理はスープスパゲッティです。この料理のポイントはスープです。僕は友達の協力を得て、前の日からスープを煮込み、次の日、女の子に声をかけてはご馳走しました。どの子もおいしそうに食べてくれました。でも、その後がなかなか続きませんでした。やはり、下心があると、女の子は敏感に感じ取るのでしょうか。この下心のせいか分かりませんが、一時期、料理にはまったことがあります。友達の仕草を見よう見真似でやってみたり、自分がやりやすいように工夫したりと。でき上がった料理には少しの工夫が施されているので、全ての料理は僕のオリジナルです。料理を作ることによって、僕の隠れた才能(?)を発見することができました。 

 

 今、大学四年間を振り返って、地元の大学に進学しなくて良かったなぁと思います。一人暮しをして、一番学んだことは人に素直になっていくことです。自分でできることは自分でやりますが、できないことは億劫がらず、怖がらず、人に頼んでいくことの大切さを知りました。そうすることで、自分を知ってもらい、結果的に友達もたくさんできます。今ではそのプロセスが自分の生きがいになっています。また、人に感謝することの大切さを知りました。態度はどうであれ、してくれたことに対して、一言「ありがとう」と言うことがその後の人間関係において、どれほど大切なことか身をもって、知りました。一人暮しは僕をとてもたくましくしました。今の僕の何よりの強みはどんなところでも生きていける自信です。 

 

二.最後までやり遂げた家庭教師 

 

 「もじばたけ」第六号に掲載されたエッセイ「僕の相棒」の中で、一度で良いから子どもに勉強を教えてみたいという気持ちから、山形市内にある全ての家庭教師斡旋所に行ったものの、障害を理由として断られた悔しい気持ちとその現実に負けずに打ち勝ちたい気持ちを書きました。ここではその続きを書き、大学生活の中で情熱を燃やし続けた家庭教師のエピローグにしたいと思います。 

 

 僕は生まれつきの負けず嫌いの性格で、一度行って駄目なら、もう一度、それでも駄目なら、友達を連れて。このように僕の最も得意とするゲリラ戦法で、何とかしようと思いましたが、考えが甘かったらしく、結果は同じでした。楽観的な僕は斡旋所が駄目なのなら、友達に家庭教師先を譲ってもらおうと考えました。「家庭教師先を僕に譲ってほしい」としぶとく、しつこく友達の友達の友達にまで声をかけましたが、友達も生活がかかっているらしく、良い返事はきませんでした。その頃は落胆していましたが、今思えば、僕の性格を友達に分かってもらうとても良い働きかけだったと思っています。 

 

 やはり、障害のある人が家庭教師をするなど無理なのかなぁと思い、何度も諦めようとしました。でも、どうしても諦め切れず、とにかく、僕は友達に自分の悔しさを分かってもらおうとしました。そこで、大学二年の五月頃、僕は友達に呼びかけて「差別」について、話し合いました。第一回目は僕があまりにも主観的になりすぎて、物別れに終わってしまいました。次の週も集まって話し合うことにしましたが、何しろ、第一回目が物別れに終わってしまったので、次から誰も来ないのではないかと心配しました。しかし、意外にも「みんなの前で自分の考えを言えて良かった」「ガクちゃん(幼少の頃からのあだ名)の力になりたい」と言ってくれた人がいて、とても勇気付けられました。第二回目からは、僕と友達にある意識のギャップを埋めるための話し合いであったと思います。友達からは「ガクちゃんが家庭教師をできないのは障害者差別ではなく、単に適性がないだけだ」「ガクちゃんの問題は個人の問題ではないか」などと言われたときには、さすがの僕も激しく動揺しました。僕にとって、辛い言葉を言われたときもありましたが、それだけ僕のことを考えてくれているのだと思い、逆に嬉しかったです。 

 

 話し合いを重ねるにつれて、「とりあえず、家庭教師先を見つけよう」ということになりました。第一回目には十四人の人が集まりましたが、最後まで残った人は男の子六人、女の子四人、合計十人です。この十人で【家庭教師運動】をしました。市内の斡旋所は全くあてにならないので、どうしようかと考え、まずはビラを作って配ってみることにしました。 

 

『家庭教師やります』 

 

 このように書いたビラを街頭で配りました。また、近くのスーパーマーケットや郵便局、市役所、社会福祉協議会などにビラを掲示してもらうように働きかけました。もう、このときは楽しくて、楽しくて、言葉で何と言ったら良いか分からないほど楽しく、みんなで一つの目標に向かっていくすばらしさのようなものを感じました。男の友達はこの活動を通して、女の子と知り合いになりたいらしく、多くの女の子に参加を呼びかけているようでした。なぜ分るかと言えば、キャンパスを歩いていると、これもまた、たくさんの女の子に「今、家庭教師を探しているんでしょ」と声を掛けられたことがあるからです。その頃は【家庭教師運動】で忙しく、とても友達作りに励んではいられなかったのですが、結構、たくさんの人たち(女の子)の知り合うことができました。『何かを始める』とは不思議なもので、かわいい女の子とキャンパスを歩いていると、ときどき「ガクちゃん、あの子といつ知り合ったんだぁ」と友達から聞かれ、ずうずうしくもしっかりと経緯を説明し、さり気無く協力を求めることができました。こんな感じで、この活動はどんどんと広まっていきました。 

 

 僕は別にお金が欲しかったわけではなく、家庭教師を通して子どもに勉強を教えてみたかったのです。それと生身の子どもと接することで僕自身いろいろと勉強になると思い、家庭教師をやってみようと思いました。僕はこの気持ちを『時給:無料でやります』と書いて、蛍光ペンで一際目立つようにしました。 

 

 この思いが通じたのでしょうか。見事、僕は家庭教師をすることができました。五月に呼びかけて、ちょうど夏休みに入る七月頃に家庭教師先が見つかったわけですから、わずか二ヶ月で悲願を達成しました。僕自身、こんなに早く家庭教師ができるようになるとは夢にも思いませんでした。これは友達が僕を支え、あるいは盛りたて、一緒に楽しく活動してくれたからだと思っています。 

 

 補足ですが、この活動を大学内に新しく【障害と共に歩む会】という名前のサークルを作って、行いました。何も新しくサークルを作らなくても活動はできたわけですが、サークルとして大学に届けたなら、幾らかの予算が付くということを聞き、活動資金を得るため大学にサークルとして届け出ました。【障害と共に歩む会】の活動といっても当面は僕の【家庭教師運動】でした。運動といっても、街頭でのビラを配りとビラの掲示なので、かかった費用としてはビラ千枚の紙代と印刷代です。確か、全部含めて五千円くらいだと思います。かかったお金は僕が負担してもよかったのですが、その頃は自分たちで一つのサークルを作ったのだという自負がメンバー全員にあり、大学にサークルとして届け、サークルのお金で活動をしていきたいという気持ちがありました。振り返ってみると、このような活動にサークルのお金を使ってもいいのかなぁと思いますが、きっと神様がお許しになることでしょう… 

 

 ここで、【障害と共に歩む会】というサークル名について説明します。サークル名はメンバー全員で考えました。「サークル名は何だっていいや」と考えていた人は僕だけで、他のメンバーは「この活動を象徴するようなサークル名にしたい」という気持ちでいました。だから、メンバー全員で喧喧諤諤の議論をしました。 

 

 【障害と共に歩む会】というサークル名の【障害】という言葉に、二通りの意味を持たせました。一つは障害者の障害を持っているがゆえに生じる障害です。そして、もう一つは健常者が障害者と接するときに感じるあるいは生じる障害です。前者は主に社会的不利(Handicap)を指し、後者は障害者と健常者の意識のギャップを指します。次に【共に歩む】についてですが、これには障害者も健常者も一緒に生きていこうよ、先に挙げた二つの障害にそれぞれの立場から克服していこうよ、乗り越えていこうよ、という僕たちの願いが込められています。サークル名にはメンバー一人ひとりの気持ちがいっぱいに詰まっています。 

 

 このように超個性的なやり方で、僕は家庭教師先を見つけました。大学二年の七月から大学を卒業するまで、かれこれ三年間、僕は家庭教師として、子どもたちに勉強を教えてきました。二月の上旬に教え子が私立高校に合格し、全ての家庭教師を終えました。三年間で教えた子どもは全部で九人。小学校低学年から高校生まで、かなり幅広い年齢層に勉強を教えました。それぞれの子どもにそれぞれの思い出があります。「これで家庭教師が終わったんだなぁ」と思うと、とても寂しくなります。三年間の家庭教師生活を振り返って、何よりも嬉しいことは途中で断られたことがなかったということです。始めて家庭教師として子どもに接したとき、メチャメチャ嬉しくて、卒業するまで続けていきたいなぁと思っていたので、最後まで家庭教師をやり遂げることができ、とても充実感があります。 

 

 僕の場合、「子どもに勉強を教える」というより「子どもと関わる」ために、家庭教師をしていたような気がします。最近、良く言われているメンタルフレンドをやっているのかなぁと思うときもあります。世間一般的な家庭教師という枠にはまらず、子どもと関われたことは僕の大きな財産です。僕を家庭教師として雇った家族(親)の一般的な傾向として、子どもの学力向上よりも人間的な成長を願っています。だからこそ、解雇されずにすんだのでしょう。 

 

 初めは無料で家庭教師をやっていたのですが、いつの間にかお金を貰うようになりました。僕は「子どもに勉強を教えることによって、僕自身もいろいろと勉強になるのでいいよ」と言いましたが、それでも払いたいということだったので、気持ち良く貰うことにしました。また、夕御飯を御馳走してくれる家庭もあり、一人暮しの僕にとって、とても助かりました。 

 

 送迎、夕食付き、バイト代、夕食の残り物の御裾分け。もう、至れり尽せりの高待遇で、僕は迎えられました。どの家庭も家族ぐるみの付き合いがありました。子どもの誕生日、クリスマス、合格祝い、豪華な夕食を作った日などは僕を呼んでくれました。子どものお父さんと何回か、飲みに行ったことがあります。お父さんと飲みに行ったときは正直に言って、とても複雑な気持ちになります。基本的に酒好きな僕は飲みに行くことが大好きです。だけど、相手が家庭教師先のお父さんとなると勝手が違います。こっちは雇われている身なので、自分で少しブレーキをかけて、酒を飲みます。だけど、自粛しているのにもかかわらず「ストローで酒を飲む人は、酒が強い証拠だ」とむちゃくちゃなことを言われて「今度また飲みに行こう」と誘われる始末です。これには子どももあきれ果てた様子でした。その都度『家庭教師として、どうかなぁ』と考えましたが、もう全てに開き直ることにしました。僕は何でもありの家庭教師です。そう考えた方が気楽でした。 

 

 子どもにはありのままの自分で接していきました。この方が自分をかっこ良く見せるよりも、子どもは受け入れてくれます。子どもとたくさんの話をしました。お互いのことを知るためには必要なことです。僕の教え子九人中七人が中学生・高校生です。彼らと関わっていく中で、一番嬉しかったことは「自分が今、一番やりたいと思っていること、一番情熱を燃やしていること」を僕に話してくれたり、自分のかっこいい部分を見せてくれたりしたことです。僕といろいろな話をする中で、前から興味を持っていたギターをやり始めた彼はいつも僕に一週間の練習の成果を聞かせてくれました。一生懸命に弾こうとする彼の姿に、自分をだぶらせて見ていたことがあります。 

 

 家庭教師は僕が生まれて初めて、社会に働きかけて勝ち取った成果です。障害者が社会に働きかけていくことは立派な障害者運動だと考えています。だから、敢えて【家庭教師運動】という言葉を使いました。無我夢中で友達に悔しさを打ち明け、そのことから結果的に家庭教師ができるようになりました。多分、これからもこの経験は僕の心の中で生き続けるだろう。僕を優しく受け入れてくれた子どもとその家族に、僕は大きな声で「ありがとうございました」と言って、最後の家庭教師を終えました。 

 

三.俺らしく生きたい 

 

 「俺らしく生きたい」これが僕の人生のスローガンです。昨年の夏、「障害があるからこそ教師になりたい」と勝手にキャッチフレーズを掲げて、僕は教員採用試験を受験しましたが、見事に不合格でした。力を入れ込んでいた分、不合格になったとき、全身から生きる力が抜けていきました。いつもならすぐに立ち直りますが、今回は意外と時間がかかりました。自分なりにこれからのことをゆっくりと考えました。そして、たどり着いた境地は「俺らしく生きたい」でした。教師を目指した理由は「教師」という職業に憧れていたのではなく(もちろん、憧れもありますが)、様々な教育活動を通して、「俺らしさ」を発揮できるのではないかと思ったからです。これからは僕の教育観を多くの人たちに知ってもらうために、社会に働きかけていかなくてはと思っています。これはノーマティブな社会の実現に向けた立派な社会運動であります。 

 

 四年間の大学生活は自分自身に素直になって、ありのままの姿で生きていくことの大切さを教えてくれました。現実社会で、僕の教育観を受け入れてもらうことはとても困難なことだと思います。しかし、一人暮しや家庭教師をして得たもの、多くの人たちの励ましを支えにゆっくりと焦らず、一歩一歩進んでいきたいと考えています。 

 

 何歳になっても「俺らしく生きたい」と言っていたいものです。笑… 

 

 二月十三日(土)〜十四日(日)に仙台市で全国障害者問題研究会(略称:全障研)全国プレ集会(東北ブロック大会)が開催されました。このエッセイは、第六分科会「自立を考える」で発表したレポートを若干加筆したものです。この大会では幼児期から青年期・成人期にかけての幅広い障害者問題を七つの分科会に別れて、学び合いました。僕が参加した第六分科会「自立を考える」では、障害者のレポートを中心に「障害者が自立した生活を送るとは、どんなことだろうか」ということを柱にして、参加者全員で学び合い、深め合いました。この分科会の特徴を一言で言えば、障害者の生の声を聞くことができることです。「自立への願い」や「自立への問題点」を障害者一人ひとりが思い思いに語りました。話を聞いて、共感できる点や当たり前のことですが、障害の種類によって、抱える悩みが違うなど、多くの示唆に富み、大変貴重なひとときでした。この分科会で、僕は「自立」という観点から大学四年間を振り返り、三つのトピックスでまとめてみました。 

 

 最後に参加者全員で、「少しでも障害者が住みやすい社会をともに創っていこう」ということを誓い合い、この分科会を終えました。 

 

※最近、パソコンを買いました。 

 

僕の電子メールアドレス… 

 

Manabu.Sannohe@ma6.seikyou.ne.jp 

 

感想などがありましたら、どしどしメールをお寄せください。尚、街頭で配った『家庭教師やります』のビラを掲載してもらいました。このビラで、僕は多くの人の心を掴みました。僕の似顔絵は大学の美術科の学生に頼んで、描いてもらいました。呼びかけたら、五人の学生が描いてくれて、その中で一番良いものを僕が選び、ビラの似顔絵に採用しました。 

 

 皆さん、僕に似ていますか?



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